4.昭和30年頃のアマチュア無線

昭和31年4月、大阪の布施市にあった、近大へ入って、電気工学科で4年間過ごすことになった。
従って、アマチュア無線も、夏休みや冬休みに帰省した時に運用するしかなかったが、近大にも、1年先輩に、2人、1年後輩に1人コールを持った人がいたので、時々、お宅へお邪魔したりして楽しんでいた。
また、電池で使う真空管を使って、送信機・受信機を作ったトランシーバーで、下宿の中学生の僕ちゃんに自転車を漕がせて、布施から生駒方面へ走りながら、QSOしたりしていた。

夏休みで帰省していた時、九州の諫早や大村で大水害があり、通信網がやられて、アマチュア無線が非常通信にかりだされた。九州から東京の厚生省などへ水死者の処理について報告し、その処理方法などを連絡していた。その様子をNHKが我が家へ録音しに来て、ラジオで放送されたりした。この時、「火葬埋葬」という言葉が飛び交っていたのを思い出す。


その他、瀬戸内海で漁船の盗難があり、岡山のアマチュア局の依頼で、捜査に協力して新聞社などへ連絡し、無事見つかったりした。


近大の文化祭で、アマチュア無線の公開運用をすることになり、JA3OKさんのシャックを、文化祭の会場であった産経会館(桜橋)へ移動して、QSOをやっていたら、隣のビルにあったラジオ大阪からクレームが入り、スタジオのモニターに、QSOが入って、困るとのこと、隣のビルを見ると、ラジオ大阪の面々が、こちらに向かって何やら、手招きして文句を言っていた。

       
     一部無線技術部移動公開実験記念 とあるQSL

        

    昭和30年頃の交信カードを見る



昭和30年頃は、AM変調がアマチュア無線の運用電波であった。
使用する機器も自作が当たり前の時代であった。

大阪での学生時代は、卒業後の就職に今度は失敗しないように勉強を頑張ったので、アマチュア無線は程々にしていた。
卒業研究では、ミリ波のFMレーダーをやって、神戸工業鰍ヨ入社した。


 
   5.SSB 時代到来

inserted by FC2 system