7. SSTVにはまる !

昭和47、8年頃HF帯で画像が送れると言うことが、CQ誌などで
話題になりはじめた。
その頃、海外からSSTVの機械を持ち帰ったと言う話で、JA3AER,
荒川さんのお宅(奈良県郡山)へ、JA5CYOさんと見せてもらいに
行ったが、それらしいものはあったが、動作はさせてみることは
できなかった。

東京電気から、OM-7が発売されたので、早速、入手して始めた。
128本の捜査線で8秒かけて、残光性のブラウン管上を走査
するものである。
部屋を薄暗くして、受信画を眺めていたが、HM1AQ、Sung
さんが、美人の顔写真を送って来たのを見て感動した。

    

    初期のSSTV(残光性ブラウン管)をみる





         CQ額の下がOM-7でカメラも付属していた。

昭和43年に、神戸工業は富士通(当時、富士通信機製造)
と合併して、その後、富士通となった。管理職試験が昭和
47年に始まって、その第2回目を受けることになり、昭和
49年に管理職になって、1年半経過した時、川崎工場へ
転勤となった。
自分の家を建てると、転勤になると言う、ジンクスがあっ
たが、その通りであった。1年半程、単身赴任
した後、家族
を呼び寄せ、会社の社宅へ入った。
社宅は4階で、向こうに庭木
があったので
その枝とベランダの間にダイポールを張って、
トリオのTS-520とOM-7でSSTVをはじめた。
メーカー製のリグを始めて使った。自作のリグは明石の
家に残しておいた。

   
             川崎の会社の社宅のシャック
 
 リグは、TS-520Sで、SSTVは、OM-7,と78年(昭和53年)
に開発された、スキャンコンバーターを自作して(TS-520の
上のもの)。
FAXはPana-1000でやっていいました。


     JH8CFH                                                          JA7HHW

                      HK3DBQ                                                   I3XQW

   社宅の4階から、向こうの木の枝に張ったダイポールでも、
南米やイタリヤが毎朝受信できていました


メモリーICの発達によって、SC-87と言うスキャンコンバー
ターが開発され、そのプリト基板が配布され、自作したが、
ICが100ケくらい並んだもので、慎重に半田付けしても、
ルーコンがあり動作させるまでに、相当苦労した。


        SC-87プリント基板で作った、スキャンコンバーター(一番大きい基板)


    上に、キャラヂェネ、とFAX用基板を乗せて、親亀の背中に子亀・孫亀状態です

  
     Key Board はアルプスのKey スイッチだけのものから、英数・カナ文字が出るようにした


 SC-87のスキャンコンバーターの完成によって、テレビのビデオ画面で見えるように
なったから、もう部屋を薄暗くしてみる必要がなくなった。

   スキャンコンバーターの画像をみる

  1980年(昭和55年)頃、パソコンが発売されて、これまで英数とカナ文字しか使え
なかったキヤラジェネを漢字とひらがなが使えるようにしたくなり、富士通のFM-8で、
SSTV用のワープロを、ベーシックで作りました。



日本アマチュアSSTV協会の(JASTA)の主催で、第2回SSTVのコンテストが開催され、
昭和55年9月1日〜9月30日までの1ケ月間開催されました。
この時のコンテスト参加者のLOG提出は、110局でした。
それ以来、毎年、9月1ケ月間開催され、令和2年、第41回が開催されました。

昭和52、3年頃、JA5KB,戒能さんが、SSTVの公開実験を、NHK松山放送局の
ロビーでやった時、川崎から応答してQSOしているところを、TVでも放映された。




 

    8.   カラー化とパソコンによるSSTV




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