6.本格的にDXを始める

昭和43年に、自宅を建てたので、QUAD ANT を建てて、本格的に、
DX交信を始めた。
当時は、HF帯のビームアンテナは輸入品くらいで、とても手がでない。
QUAD ANT を自作することにして、Xマウントは、溶接屋さんに頼
んで鉄パイプで作ってもらった。グラスファイバーが出る前だから、
浦山へ行って、竹竿を切って来て、クロスマウントに竹竿8本を差し
込み、QUADにした。
早く、DXに
使ってみたいので、お盆の休みに電柱用の柱の上に
あるローテーターへ、組み立て
た、QUADを乗せるまでが大変な作業となった。
重機などない時代ですから、滑車で釣り上げて、いざローテーター
ヘ乗せようと、支柱のパイプを持ち上げたとたん、両手に激痛が
走った。しかし、手を離せば、一巻の終わりである、歯をくいし
ばって、ローテーターに乗せた時には、両手の手の平の皮がずる
むけになって、血が出ていた。
早く、使ってみたいものだから、スプレッターの竹は青竹のままで
あり、重かったのである。

DXを稼ぐには、パワーUPも必要だったから、
JA3GXDの3エリ
ヤーのコールで、落成検査を受けた。その時、電監の人が2人
来て、不用輻射(高調波など)の確認をするため、一人が電測
計とトランシーバーを持って、200m程離れたところで受信しな
がら、もう一人(送信機を操作するためシャックに滞在)の方に
指示しながら測定していた。僕も測定している外の人の傍に
いたのであるが、測定する時は、トランシーバーでトンツーの
キーを押して電波を出しっぱなしにしろと指示して測定していた。
しばらく測定をしていた時、送信機のキーを押していた方から、
送信機から煙が出だしたと言ってきたのが、トランシーバー
から聞こえてきた。
なんとなく悪い予感がしていたのであるが、6146のプレートに
接続していたチョークコイルが連続した通電に耐えられなかっ
たのである。
チョークコイルを交換して、何とか、落成検査を終えることが
できた。
翌日、別のアマチュア局に行って、昨日、こんなことがあった
と話していたそうである。


その苦労した、QUADはよく飛んでくれた。

                                竹竿で作ってた、QUAD ANT

 シャックは、あの二階の左端の部屋で、窓から、アンテナの回転も確認できた。
ある時、会社から帰ってみると、柱にケーブルがぐるぐる巻きになっていた、留守
の間に子供が面白がって、ローテーターのボタンで遊んでいたようだ。


                自作したSSB 送信機・受信機のシャック

このシャックとアンテナで、昭和43年から47年までの4年間、DXをやった。
DXCCは約330カントリーであったが、SSBとCWで、247カントリーと
交信して、交信証であるQSLカードコンファームは227カントリーであった。

      

      交信証(QSL card)の一例とカントリー交信記録を見る

会社の同僚でも、DXをやっていた、JA3BG,JA3EA,JA3IYY,などがいて、
毎日、昨夜の珍局とQSOできたかどうかを報告しあって、競っていた。
DXを稼ぐだけでなく、偶にはには、思わぬQSOもあった。ヨルダンの
フセイン国王との交信である。JY1というコールでCQを出している局が
あり、変わったコールだと思いながら交信した。
ヨルダン国だけでも珍局なのだが、QSLカードが秘書から送られてきて、
國王だったことがわかり吃驚したのである。

     ヨルダンのフセイン国王からのQSLカード

丁度、大阪万博が開かれていた頃で、アルゼンチン館の壁画を書くため
来日していた、ホアンガッチさんのご家族とQSOして、家族の声を録音
して、千里丘陵のアパートに滞在していた彼に、電話で聞かせたりした。



     アルゼンチン館の壁画と当時の朝日新聞の記事

 昭和47年の台風で、QUAD-ANTがやられて、DXは興味をなくした。
この頃になると、トリオや八重洲から、SSBの機器が出たし、アンテナ
も国産のビームアンテナが簡単に入手出来る時代になり、DX向け
電波も飛びやすくなった。
 そこで、何か次の楽しみ方はないかと思っていたところに、SSTVで
画像通信ができる話がちらほらしだした。
 その頃は、レーダー用の残光性ブラウン管(P
7)を使ったOM-7で
あったが
HM1AQの女性の顔画像を見たとたんに、はまってしまった。


     

       7.SSTVにはまる


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