11.アマチュア無線 こぼれ話

1.旧陸軍の軍事演習

 私は5〜6歳頃、松山市の東の郊外の田舎に住んでいた。そこには、
陸軍の演習地もあって、秋の田んぼの取入れが終わった田を利用して、
兵隊さんが軍事訓練をしていた。
そんな訓練の中に、移動用の無線機を使って、交信しながら、
田んぼから田んぼへ移動していました。
子供たちは、移動無線機の隊の後をつけて、ついて行っていました。
軍事訓練が終わって、家へ買った私が、「めんどう(面倒)か?、
かんどう(勘当)か?」等と訳の分からないことを口走るので、
母親がこの子は「何を口走っているんだろう」と思ったそうです。
アマチュア無線を始める年ごろになって、「明瞭度どうか?、感度はどうか?}と、
兵隊さんが言っていたのを真似していたのだと理解した次第です。

2.旧陸軍の無線機

 アマチュア無線を始めた頃、旧陸軍の無線機を使ってみる機会があった。
  
  
  右側のもの

直熱ヒーターの真空管で、発電機は手回しで、ものすごく重たいプーリー
が付いていて重労働でした。


3.蛍光灯をアンテナにぶら下げたら
 
 蛍光灯が家庭で使われるようになったのは、昭和25,6年頃でした。
開局した昭和29年頃、アンテナ用の竹竿の先に、蛍光灯をぶら下げて、
送信時に、高周波で光るようにしていたら、ある晩、村のさん宿所
(四国電力の出先)のおっさんが、メガーとテスターを持って来て、
「あれ線が一本しか行ってないのに、何故蛍光灯が点灯するのか」
と合点が行かない様子でした。

4.立ち合い検査に来た人

  神戸工業に入社して、10年くらい過ぎた頃、テレビのUHFサテライト
の終段に使う、進行波管(TWT)の開発・製造を担当していた。
ある日、テレビ愛媛から受注したサテライト装置の立ち合い検査に
こられて、TWTの製造工程も見たいとのことで、私が案内することになった。
その時、頂いた名刺の名前、「相原頼望」を見て、どこかで見た名前だ
とは思ったが、思い出せなかった。
工場見学が終わって、応接に帰えられた、相原さんから社内電話があり、
渡部さんは「5CUさんじゃないですか?」と言われて、JA5DD,の相原ですよ
と言われ、思い出しました。
相原さんは、高校は違っていたが、開局した頃、50MHzの送信機の
調整のため我が家へもってきて、一緒に調整したりしていました。
相原さんは東京理科大へ行かれて、夏休み明けには、一緒に大阪まで
同行したりした仲でした。
大学卒業後お互いに、どこへ就職したかもわからないまま、10年近く
過ぎて、完全に忘れ去っていたのです。
 その後は、帰松した時、時々、テレビ愛媛へもお邪魔させてもらいました。

 5.「ビキが鳴きよる」が決め手に

 開局前に、アンカバー(UC)同士で、毎日、QSOしていた頃、正規の
ライセンス局にとっては、邪魔だし、その存在を報告する義務があった。
私がアンカバーで摘発された時、田舎の田んぼの中にあった、
我が家は、夏はカエルが常時泣いている。
そのバックノイズQRMの様子を「ビキが鳴きよる」としゃべったらしく
カエルのことをビキと呼ぶのは、小野村辺の人に違いないと、
決め手になったのだと知った。











inserted by FC2 system